釣り雑誌編集長が語る 水辺の四方山話
<第三回>太宰治と津軽の鱒



 津軽は、僕にとって特別な場所である。

 思春期から青春時代にかけて、ある作家と出会ったことで、僕はとても大きな方向転換をし、結果的に今の職に就くこととなったからだ。

 その作家とは言わずもがな、太宰治である。津軽は彼の生まれ故郷であり、小説のタイトルにもなっているほど、彼の作品には度々登場する。

 学生時代、僕は何度か太宰ゆかりの地を旅している。生家(斜陽館)のある金木町からはじまって、蟹田、小泊、竜飛崎……。演歌の歌詞ではないが、上野発の夜行列車に乗って朝の青森駅に降り、そこから津軽へと足を延ばした。

 前回の四万十川のところでも記したように、僕はこの仕事に就く前に旅した思い出の地を、その後仕事で度々訪れることになる。若かりし頃の感傷もへったくれもなく、過去は強制的にアップデートされることになるわけだ。津軽も決して例外ではない。ただ他の地域と比べれば、頻度はとても少ない。理由は、前出の一人旅の時から思っていたことではあるが、津軽には岩木川を除いて、いわゆる大河はない。沿岸を流れる小さな川ばかりで、大物も少なく、釣り人的にあまり食指が動かないのかもしれない。

 ただ、僕にとっては、こと魚釣りに関しても、特別な場所になった。

太宰の遊び場だった芦野公園の文学碑の前で。

 初めて取材で訪れたのは、今から20数年前の夏。河口付近でも川幅は5mほどの、沿岸小河川で釣りをした。上流に向かうと、流れはさらに細くなり、鬱蒼とした樹々に覆われた別世界となる。これも流程の短い津軽の川の特徴である。

 初日は、どれだけ上流に進んでも、魚はほとんど釣れなかった。何日も雨が降っていないせいか水が少なぎて、魚たちは大きな岩の下などに隠れ、じっとしているのだと思われた。

 本来ならどこか他の場所に移動するのが常なのだが、夕方から天候が急変し、辺りは集中豪雨に見舞われた。見る見るうちに川は増水し、濁りが入った。「雨、雨降れ降れ! もっと降れ!」ではないが、まさに恵みの雨だった。

 翌朝、川はまだ濁っていた。本来ならまだ釣りが可能な状態ではない。ただ、大きなブロックが岸沿いに入っている場所の下流側に、水の澄んだ窪みがあった。一応探ってみるか、ぐらいの軽い気持ちだったと思う。次の瞬間、渓流用の短い竿は根元からひん曲がり、その主は釣り人を水中に引っ張り込むかのように、上流へとゆっくりと、そして力強く動き始めた。

 ミシッ、ミシッと、竿が軋む音が辺りに響く。少しでも無理をすれば、竿はポキリと折れてしまうだろう。こういう場合、釣り人ができることはただ一つ。相手が疲れるまでなんとか凌ぎ、その隙をついて一気に勝負に出ることだけだ。

 一進一退の攻防の末、引きが弱くなったところを見計らって魚を岸際に寄せる。大きな魚体をバッタン、バッタンさせながら下流の瀬に身を横たえたのは、60センチをはるかに超すオスのイワナ、正確にはアメマスだった。

 川幅2メートルにも満たない小さな場所で、60センチを超す大物。「こんなところにどうして?」「普段はどこに?」「餌は?」等々、僕の頭の中には疑問符がいっぱい点灯した。当時はまだ経験が浅く、それがサケのようにいったん海に降って成長し、再び川に戻って来た魚であることを、瞬時には理解できなかったのだ。知識としては理解していることでも、それが現実になった時、人はうろたえるものだということも初めて体験した。

 前述のように、アメマスとは渓流に棲むイワナの降海型で、漢字では雨鱒と書く。文字通り、雨が降ると海から戻って来る傾向が強く、前日の雨が呼び水となったのだろう。20年ほど前に川上健一氏の『雨鱒の川』という小説が映画化されて話題を呼んだ。この映画に登場するのも巨大なアメマスだ。ちなみに、アメマスが多いのは、北海道から北東北にかけてで、関東以西ではまず見られない。

「この川でアメマスは珍しくはないけど、こんなに大きいのは滅多に出ないよ。神ががってるかも……」

 地元の釣り人はそう言って、賞賛した。

 それが、僕の津軽での初仕事だった。

雨後に姿を現した60センチ級の雨鱒。

 それから約15年後、僕はやはり初夏に津軽の川を訪れることになった。

 この時の狙いはサクラマス。そう、渓流魚のヤマメの降海型である。桜の咲く季節に海から生まれた川へと戻ってくることから、そう呼ばれるようになったという。釣りの世界では、なかなかお目にかかれない、“幻の魚”のひとつであり、取材中に釣れる確率は極端に低い。この時も極度の渇水で、状況はかなり厳しかった。

 しかし、意外にも、朝一番でサクラマスは僕の前に現れた。

「運がいいねぇ~。ベストシーズンでも滅多に釣れないのに……。持ってるねぇ……」

 地元の釣り人は、再びそう言った。

 かくして、津軽は僕にとって公私ともども特別な場所となった。

 太宰治が導いてくれたともいうべき不思議な縁……、そう思いたいのはもちろん僕だけで、実際には何の相関関係もない。ただ、彼の小説を読まなければ、僕はそのまま理数系に進み、エンジニアにでもなっていただろうと考えると、滅多に釣れない魚が複数回に渡って降臨したことも、あながち関係性がなくもないように思えてくるから不思議である。久々に小説『津軽』でも読み返してみようと思う今日この頃だ(了)。

津軽半島にはこうした小さな川が多い。

著者プロフィール
山中満博
1966年東京都生まれ。渓流釣り雑誌の編集長。30年に及ぶ記者生活で、国内では訪れていない県はないというほど、全国を歩き回っている。趣味は低山登山と神社巡り。編集作業の傍ら、時々アウトドア雑誌や新聞にもエッセイを寄稿。埼玉県在住。


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