釣り雑誌編集長が語る 水辺の四方山話
<第二回>清流 四万十川 思い出の強制アップデート



 四万十川――。
 “日本最後の清流”として知られるこの川を、僕が初めて訪れたのは学生時代のことだ。

 その頃僕は電車の旅に凝っていて、「青春18切符」という、日付を跨がない限りJR全線どこまでも乗車可能な切符を最大限に活用して、ある時は北に、ある時は南にと放浪していた。

 四万十川を目指したのは、確かゴールデンウイークだったと思う。東京発大垣行きの夜行列車を皮切りに、そこから在来線を何本も乗り継いで四国に渡り、最後はJR予土線の「江川崎」という駅に降り立った。車窓から見る四万十川には無数の鯉のぼりが架けられ、風を切って泳いでいたのを覚えている。

 四万十川の列車旅といえば、下流域を走る「土佐くろしお鉄道」がつとに有名だ。だが、その手前で降りたのには、もちろん理由がある。ここで僕は、人生初となるカヌーでの川下りを体験するつもりだった。江川崎には「カヌー館」というレジャー施設があり、そこで川下りの入門体験が可能だったのだ。

 関東の川とは比べものにならないほど綺麗な河原でカヌー操作のレクチャーを受け、注意事項を頭に叩き込んだ後、いざ出陣! この時の僕はまさに血湧き肉踊るといった感じで、完全に舞い上がっていた。川面を滑空する高揚感と水上から見る絶景は、まさに人生初の美しさだった。

カヌー初体験時の若かりし頃の筆者。


 そして、この興奮が過信を生んだ。よせばいいのに流れの早い場所へ向かい、その数秒後にはあえなくチン(カヌー用語で横転すること)。「真上に上がってはいけない」とあれだけ言われていたのに、這い出そうとしては逆さまになった船体のどこかに頭突きをし、水を飲んで息も絶え絶えで溺れる寸前だった。

 教官が気づいて助けてくれるまで、時間にして30秒もなかったようだが、僕は完璧にパニックに陥っていた。その場所は頑張ればつま先で足がつくほど浅かったし、ライフジャケットを着用していたので、カヌーの下から這い出すことさえできれば、何の問題もなかったわけだ。

「真上に上がっちゃダメだとあれほど言ったのに……」

 教官からそう言われた僕は、先生に注意されて廊下に立たされた生徒の気持ちそのものだった。

 かくして、初の四万十川詣で、並びに川下り体験は、ややほろ苦いものとなった。この時は、中学校からの親友と一緒に旅をしており、夜は本場のカツオと地酒で一献傾けたのだが、僕は昼間の失敗をひきずっていて、なんだか味もよく覚えていない。帰り際「もう二度と来ることもないかもしれない」と、車窓から見る四万十川の風景を、隅々まで目に焼き付けたのをよく覚えている。

 しかし、このセンチメンタルジャーニーから10年も経たないうちに、僕は四万十川を何度も訪れることになった。そう、就職して配属された釣り雑誌の取材である。この川のほとりで生まれ育った有名な釣り人と、隅から隅まで釣り歩き、僕がカヌーでチンした辺りも幾度となく通り過ぎた。若き日の感傷に浸る時間などなく、「二度来ることもないと思っていた場所」はうむも言わさずに「馴染みの場所」になった。

 ところで、四万十川といえばアユ、ウナギ、幻の大魚であるアカメなどが有名だが、個人的には、スズキを筆頭にあげたい。スズキは、基本的には海の魚だが、四万十川では海から川に上る稚アユを追いかけて、スズキも川を上る。河口から数十キロ上流でも確認されるほどで、地元では『山鱸』の愛称で呼ばれている。ダムや人工物がなく、海と川がつながっている証である。(了)

四万十川の山鱸。

著者プロフィール
山中光博
1966年東京都生まれ。渓流釣り雑誌の編集者。30年に及ぶ記者生活で、国内では訪れていない県はないというほど、全国を歩き回っている。コロナ禍で取材が減り、目下体重増加に悩んでおり、ジョギングを始めたが三日坊主。編集作業の傍ら、時々アウトドア雑誌や新聞にもエッセイを寄稿。埼玉県在住。